「コットンでつながる、被災地と全国」
東北コットンプロジェクト

綿花の生産・販売を通じて、被災地とアパレル業界、国民を繋げる取組みを行っている「東北コットンプロジェクト」。東日本大震災発生後すぐに始まったこのプロジェクトも今年で7年目を迎えます。今回は、プロジェクトの成果や想いについて、広報担当の中野幸英さんにお話を伺いました。


△広報担当の中野さん。本業はフォトグラファーだが、現地ではコーディネーターや農作業なども行う。
(※当社発行の農業フリーペーパー「VOICE」39号/2017年夏号より転載)

コットンでつながる、被災地と全国。

―「東北コットンプロジェクト」が始まったきっかけを教えてください。
 2011年、東日本大震災で発生した津波は、沿岸部の圃場を破壊するだけでなく塩害を残しました。稲作地帯だった荒浜地区や名取地区(ともに宮城県)は、排水施設も壊され除塩作業ができないところが多く、稲作を諦めていました。そこで、塩害に強いと言われている綿花栽培を通して、震災復興や農業再生、雇用創出等につなげようと考え、地域の農業法人とアパレル業界等が連携した「東北コットンプロジェクト」が始まりました。現在、85を超える企業・団体がこの活動にチームとして参加しています。

―活動をされる中で、どのような苦労がありましたか?
 やはりコットン自給率0%の日本での栽培、という難しさです。津波に遭った圃場は砂浜のような状況でしたが、綿花は砂漠など過酷な環境でも育つので「栽培出来るだろう」と思っていました。しかし、それは甘かった。収穫期に実が開かないんです。綿花は乾燥を好みますが、日本は湿気が多く、収穫期には長雨や霜にあたってしまったことが大きな原因でした。1年目はほとんど収穫できず、その量は100キロほど。それでも何とか製品に仕上げました。
 しかしそこで諦めず、農家さんが生産技術を磨いていき、2016年度には1トンを超える収穫量になりました。作付面積も増えていますが、同じ面積で換算しても10倍もの収穫量になっています。収穫されたコットンはプロジェクトチームが全量買い取り糸にしますが、今ではジーンズやTシャツ、鞄など100種類を超える製品が生まれています。

 
(左)昨年度の収穫前の綿花(写真提供: 中野幸英氏)/(右)収穫中の様子。手摘みで収穫する。

―メーカー側には「こういう製品にしてほしい」と要望を出すのですか?
 それはないですね。生み出される綿花はあくまで原料なので、そこからどのような製品を生み出すかは各社にお任せしています。
 あと、このプロジェクトには農業もアパレルも関係ない異業種の方にも賛同いただています。例えば日本航空(JAL)さんは、毎年社員さんやボランティアさんが現地に訪れて播種や収穫などの作業をされたり、東北コットンで作った商品を マイレージの交換品として採用しています。

―実際に現場へ赴くのは意味深く、お互いのやりがいにも繋がりそうですね。
 そうですね。震災後、現地の方でさえ近寄らなかった荒れた大地を、自分たちの手で畑に変えた手ごたえは、いまだにチームみなさんが感じています。
 それに、当初は食べ物でない作物を作ることに抵抗を感じる農家さんも多くいた中で「面白そうだ」と思ってコットン栽培に取組まれた農家さんの存在、加えて、当初は3年間で終了予定だったこのプロジェクトを7年目となる今も続けられている農家さん達の想いに応えるためにも、誰もが誇れるブランドに築きあげていきたいと考えています。

―当初は3年間の予定だったのですか?
 そうです。3年間の綿花栽培で圃場を除塩し稲作に戻るという想定でしたが、農家さんが継続を希望されました。震災が契機となりましたが、新しい作物生産に意味を見出し、初年度に諦めなかったことが、スローペースではありますが、成功につながっていると感じています。

―最後に、学生に一言お願いします!
 「どうすれば人の役に立てるか」を考えて道を選んでほしい。頭でっかちはダメですが、これからの時代はモノと心が一緒になっていることが大切だと思います。超ビッグになると同時に誰かを救う、そんな人になってほしいですね。

 
収穫後の、ふわっふわの白い綿。


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